炊飯器の「できた」は、本当に今なのか
Gusha「炊飯器の『できました』って、たぶん人間より先に帰りたいって意味だと思う」
Kenja「何の帰宅時間だよ」
Gusha「だって音鳴るじゃん。ピーピーピーって。あれ、俺には『もういいだろ、あとは自分でやってくれ』に聞こえる」
Kenja「炊き上がったことを知らせてるだけだろ」
Gusha「でも、鳴った瞬間に開けるの、ちょっと早くない?」
Kenja「じゃあ何秒待つんだよ」
Gusha「俺は十秒」
Kenja「短いな」
Gusha「十秒って結構長いぞ。ご飯の前では」
Kenja「何を待ってるんだよ」
Gusha「炊飯器の気持ちが落ち着くのを」
Kenja「炊飯器に気持ちはない」
Gusha「じゃあなんで保温になるんだよ。急に大人の顔するじゃん」
Kenja「それは機能だよ」
Gusha「炊き上がりまでは『俺、炊いてます』って感じなのに、終わった瞬間『ここからは保温で』って。会社なら引き継ぎだよ」
Kenja「炊飯器に勤務体系を持ち込むな」
Gusha「でもさ、炊き上がりの音が鳴ったあと、すぐふた開ける人と、ちょっと待つ人いるじゃん」
Kenja「いるな」
Gusha「俺、あの待ってる時間が好きなんだよ」
Kenja「何が?」
Gusha「まだご飯じゃない時間」
Kenja「もう炊けてるだろ」
Gusha「いや、音は鳴った。でもふたを開けてない。だから家の中に『ご飯があるのに、ご飯が存在してない時間』が生まれる」
Kenja「哲学にするほどの空白じゃない」
Gusha「しかも、その間にしゃもじを持って待つと、妙に儀式っぽくなる」
Kenja「待て。なんでしゃもじを持つんだよ」
Gusha「知らない。俺も持った瞬間に『俺、米を迎えに来ました』みたいになる」
Kenja「迎えに行くな。台所にあるんだから」

Kenja「そもそも、炊き上がったら混ぜたほうがいいだろ」
Gusha「そこなんだよ。俺、あのふたを開ける瞬間にちょっと責任を感じる」
Kenja「ご飯のふたを開けるだけだぞ」
Gusha「開けたらもう戻れないじゃん」
Kenja「何が?」
Gusha「蒸気が出る。ご飯が見える。現実が始まる」
Kenja「昼飯だよ」
Gusha「しかも開けた瞬間、米が『お待たせしました』みたいな顔してる」
Kenja「米に顔をつけるな」
Gusha「だから俺、最初の一杯は慎重になる」
Kenja「普通によそえ」
Gusha「しゃもじを入れるときも、ど真ん中から行っていいのか、端から行くのか迷う」
Kenja「そこまで迷う人いるか?」
Gusha「真ん中から行ったら、炊飯器の中心部をいきなり崩すことになるだろ」
Kenja「ご飯を地形みたいに扱うな」
Gusha「でも最初に混ぜるとき、ちょっと気持ちいいんだよな。ふわっとしてるところを、しゃもじで返す感じ」
Kenja「それは分かる」
Gusha「ほら。今ちょっと炊飯器側に行った」
Kenja「行ってない」
Gusha「『待つ意味もあるかもしれない』って顔してた」
Kenja「顔を読まれる覚えはない」
Gusha「じゃあ、炊き上がりの音が鳴ったあと、何分待つ?」
Kenja「機種にもよるし、基本は説明書どおりでいいだろ」
Gusha「じゃあ説明書に『人間関係としては五分』って書いてあったら?」
Kenja「書いてない」
Gusha「俺なら待つ」
Kenja「炊飯器と人間関係を築くな」
Gusha「だって、炊飯器って毎日会うじゃん」
Kenja「まあ、そうだけど」
Gusha「朝もいるし、夜もいる。黙って米を炊いて、終わったら音だけ出して、あとは何も言わない」
Kenja「急に炊飯器への評価が高くなったな」
Gusha「だから俺、炊き上がりの音が鳴ったら、すぐ開ける日もあれば、ちょっと待つ日もある」
Kenja「結局その日の気分かよ」
Gusha「うん。でも不思議だよな。何分待ったかより、『今日は今すぐ食べたい』って思った日のほうが、ご飯がうまそうに見える」
Kenja「……まあ、腹が減ってるだけかもしれないけどな」
Gusha「じゃあ今日は、音が鳴ったらすぐ開ける?」
Kenja「いや、今しゃもじ持ってるのお前だから、お前が決めろよ」
Gusha「……じゃあ、もう十秒だけ」
Kenja「さっきと同じじゃねえか」
Gusha「この十秒は、さっきよりご飯に近い十秒だから」
Kenja「その理屈だけは、ちょっと分からんな」
Gusha「でも、しゃもじって持つと待てるんだよ」
Kenja「それはもう、しゃもじの問題だろ」
Gusha「……じゃあ、もうちょっとだけ持っとくか」
Kenja「ご飯、冷めるぞ」
Gusha「それは困る」
Kenja「だったら開けろよ」
Gusha「……うん」
Kenja「……」
Gusha「……今の音、もう一回鳴らないかな」
Kenja「何の確認だよ」